2019
01
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分割と設計

はじめてリズムゲームというものをプレイしたのは、中学生のころだったように思う。
友人宅において、当時プレイステーションに移植されたばかりの『beatmania』に興じたのだ。

世間的には、すでにそれは大いに注目を浴びているソフトだったらしい。しかしあいにく僕は、ゲーム界隈に疎い少年時代を過ごしてきた。教育方針という言葉を隠れ蓑にした経済的事情により、わが家では一切のゲーム機を買ってもらえなかったからだ。
今でこそ往年のスーファミソフトに一家言あるようなふりをしているが、本格的に熱中するようになるのは大学生以降の話で、現在もちあわせているゲーム関連の知識も8割方は有野課長によってもたらされたものに過ぎない。思春期以前の僕のゲーム体験は、すべて友人宅で培われたものだった。

だから、まるで筏のようにタイルが上から下へと流れてきているのに、それに飛び移ったり踏み越えたりするキャラクターが存在しないという画面には面食らってしまった。当時の僕にとってコンピューターゲームとは、マリオ的なものとニアリーイコールだったのだ。

それでも見よう見まねでコントローラーを握ってみると、なるほど、たしかにビートという風に消えゆく楔を可視化したUIには、理屈や思考以前の心地よさがあった。まだ音楽史さえろくに知らず流行り歌ばかりを聴いていたあの日の僕にも、リズムに身を委ねることの快楽は充分に実感できた。
アジア圏の伝統音楽はリズムよりブレスを推進力とするのが基本だったはずだが、それでもリズムへの欲動というものはDNAに太字で刻み込まれているのかもしれない。

一方で、僕はリズムゲームの実力とリズム感にはあまり関係がない、ということにも気づいていた。
途中で一度でもタイミングがずれると、まるで数学のテストのように、それ以降どれだけ正しいリズムを刻みつづけたとしても点数は加算されないからだ。
軌道修正のためには、あえてもう一度脇道に逸れる必要がある。だが、できあがってしまったリズムを意図的にずらすというのは容易ではなかった。

このサイトをリニューアルするタイミングを、僕は少々間違えたのかもしれない。

作業を進めていたときは、かつてのように毎日とは言わずとも、週に2回程度は更新していこうと意気込んでいた。そうでなければ、今さら個人が独自ドメインでブログを構える意味などないだろう。
加えて、ちょうどそのころTwitterの仕様変更があり、長らく使用していたサードパーティ製のクライアントが使い物にならなくなったという事情もあった。更新停滞の原因のひとつにSNSの存在があることは自明で、再び日々の四方山をブログで書き殴りはじめるには絶好のタイミングのように思えた。

しかしご覧のとおり、リニューアルを宣言したエントリからすでに1か月半ものブランクが空いてしまっている。こんな開店休業状態では、わざわざ時間をかけてリニューアルした甲斐がないではないか。

やはり、12月半ばという時期が悪かったのだろうと思う。半径2km以内だけで日常生活が成立しているような僕であっても、年末年始という期間はなにかと野暮用が多い。忘年会・新年会の類もそれなりにあったし、白昼から深夜まで飲みに連れ回された日もあった。
すると、更新意欲はあってもなかなか腰を据えてPCのまえに座る時間がつくれない。どうにか投稿画面を開いても書いたり消したりを繰り返すばかりで、そのうちアルコールに負けて眠りに落ちてしまう。これではいかんぞ、と仕事始めと同時に襟を正してみたが、今度はその矢先に風邪を引くありさまだ。

こうも見事に出鼻を挫かれてしまっては、サイト更新は先延ばしにせざるを得なかった。なにも僕はこれで生計を立てているわけではないのだ。ほかのタスクも溜まる一方だし、そうでなくたって博覧趣味なので山ほどやりたいことはある。
だが、そうしてブランクが空けば空くほど、生半可な形の更新でお茶を濁すことも許せなくなっていった。説得力のない沈黙が怖ろしくなるのだ。沈黙の温度に蝕まれていくのだ。やがて自分で上げたハードルの高さに足が竦み、足踏みしながら言い訳ばかりを考えるようになる。絵に描いたような自縄自縛だった。

今日こうして更新するに至ったのは、そうこうしているうちにちょうど周回遅れになったというだけのことだ。これはこれでベストなタイミングではあったが。

失敗と成功とを分かつものは、突き詰めるとタイミングだけなのかもしれない。ギャンブルのような運の要素が絡むものはもちろんのこと、一般に実力勝負とされる世界であってもこれは例外ではないだろう。

たとえば野球選手。ドラフトにかかるかどうかの当落線上にいるアマチュアにとって、運命を左右するのは個々の能力以上に環境とタイミングだ。例年であれば高確率で声がかかるような選手であっても、同じポジションに有力選手が集中している年には見送られてしまう可能性があるし、逆に少々見劣りしたとしても、編成上のウィークポイントに合致すれば指名されることもある。

プロになってからだって、コーチとの相性が悪ければ伸びるものも伸びない。一軍で通用するだけの実力を身につけたところで、監督の好むプレイスタイルにそぐわなければ出番はかぎられる。すべての条件を満たしていようとも、同じポジションに絶対的スターがいたらスポットライトを浴びることはかなわないはずだ。

極言すれば、数億円の年俸を稼ぐ超一流選手もタイミング次第では今ごろブラック企業で馬車馬のように働き半額寿司を買おうか買うまいかと悩む日々を送っていたかもしれないわけだ。ストレスをストロングゼロで流し込んで内臓を痛めつけるだけの緩慢な自殺をしていたかもしれないと思うと、能力という概念を過剰に持ち上げることを躊躇したくもなる。

タイミングを逸するということは、可能性を毀損することにほかならなかった。
もちろん、それも含めて才能なのだといわれれば、僕は黙って首を縦に振るしかない。