2019
04
07
ほんとのはなし

読書家というのは不思議な言葉だと思う。この文字列から僕たちが想像するのは、いわゆる本の虫のような人物像であるはずだ。しかし、どれほど注意深く3つの文字を見つめてみても、本への愛情や執着を窺わせるような要素はどこにも見当たらない。

たとえば愛犬家、たとえば好角家、あるいは嫌煙家でもいい。趣味や嗜好を表す「~家」という表現には、感情とその対象が明確に示されているものが多い。健啖家や大酒家という言葉にも、「健啖」や「大酒」にすでに大好物であるという意味合いが含まれている。
それに対し読書家は、読書についてのスタンスがあまりに不明瞭だ。字義だけをとれば、ただ「読書という行為をおこなう人間」という以上の情報を見出せないではないか。

もちろん、「行為+家」という構造の言葉がめずらしいわけではない。
だが、たとえば登山家というのは登山のプロフェッショナルに対して用いられるものであって、一介の登山好きを指す言葉ではないはずだ。ストリートファイトに明け暮れるだけのチンピラが格闘家を名乗ることもないし、日曜大工を建築家と呼べばそれはもはや厭味になる。これらは、あくまでも職業名なのだ。

読書家と呼ばれる人のなかには、たしかに書評家や書店員など、読書量が収入に結びついている者もいるかもしれない。しかし、大多数は読書そのもので生計を立てているわけではないし、本とは無縁の仕事に従事していることだろう。
やはり読書家における「~家」は、プロフェッショナルとしての「~家」とは異なる意味をもつ。

では、読書家にとっての読書とはいったいどういう存在なのだろうか。

残念ながら、僕は読書家ではない。知人からそう呼ばれることもあるにはあるが、自分のなかにある「読書家」という言葉のイメージを基準にすれば、現状の僕はあまりにもそこから乖離している。あるいは、かつての自分の読書体験が太い境界線を引かせているのかもしれない。

僕が自信をもって読書家を名乗れたのは、せいぜい15年ほど前までだ。ハイティーンをピークに、僕の読書量は年々右肩下がりをつづけている。
購入する冊数に関しては、もちろん今のほうがずっと多い。10代のころはろくに金などなく、おまけにCDや美術展のほうがはるかに優先順位が高かったので、年間に買う本は多くても5, 6冊程度だった。
しかし当時の僕には、いつでも手に取ることのできる巨大な書庫があった。区立図書館だ。

僕の生まれ育った墨田区は、面積や人口のわりにやたらと図書館の数が多く、おそらく区内のどこに住んでいても自転車で10分も飛ばせば図書館に辿り着くことができた。総蔵書数を見れば他区とそれほど変わらないのかもしれないが、分散していることで図書館を身近に感じられたのだ。
だから、「面白い本を読みたい」と思ったときに図書館という選択肢が出るのは自然だった。今までに図書館から受けた恩恵を金額換算したならば、これまでの納税総額など余裕で回収できるに違いない。

とくに、高校を数か月でエスケープしてから大学受験に臨むまでの約2年半は凄まじかった。週3回以上のペースで通い詰めては毎回4~5冊の本を借り、即座に読了して返してまた4~5冊借りる、というルーティンをひたすら繰り返していたのだ。
ジャンルも無節操で、目を惹くタイトルは片っ端から借りた。僕の知識や興味が必ずしも体系的とはいえず不自然な偏りを見せがちなのは、この時期の影響だと思う。

やがて大学生となりバイトをはじめてからは自分で購入する本も増えたが、それでも図書館通いをやめることはなかった。所狭しと並べられた書棚をあてもなく眺める時間には、目当ての本を最短距離で手に取ることとはまったく別種の快楽があったからだ。
ネット検索では辿り着くことのない偶然の出会い。背表紙の誘惑。目と字が合ったらミラクル。もしあの図書館にくつろげるソファでもあったなら、何時間だってあの場で過ごせたことだろう。

ただ、蜜月がいつまでもつづくことはなかった。
ある時期から、図書館に通う頻度は如実に激減する。

理由はいくらでも思いつく。たとえば電車移動の機会が減ったこと。たとえばプロ野球のネット中継サービスが充実したこと。たとえば飲み歩く癖がついてしまったこと。いつしか、本を借りたところで返却期限までに読み終えることが難しくなってしまっていたのだ。
どうせ読みきれないなら買ったほうが早い、という思考に辿り着くのは自然な流れだった。一方で、買ってしまった本は「いつでも読める」という思いから着手するのに時間がかかった。いわゆる積ん読というやつだ。購入冊数と読書量は、如実に反比例していった。

さらに決定的だったのは、6年まえの図書館再編だ。

僕が足繁く通っていたあの図書館は、実は戦前から地域住民の書庫として重用されてきた区内最古の図書館だった。建物も空襲で焼けたのちすぐに改築されたもので、60年以上もそのままの姿を保っている。歩くたびに床板が小鳥のように鳴いたし、本を取り出せばその都度ふわりと古い紙の匂いが漂った。
歴史があるといえば聞こえはいいが、老朽化が無視できないレベルにまで進行していたわけだ。

もともとこのあたりは地盤が強固とはいえないエリアであるうえに、図書館は一般住宅の何倍もの重量を支えなければならない。先の震災をうけて耐震性の見直しが図られている状況にあっては、もはや存在自体が罪となっていた。
そこで、僕が愛したあの図書館はもうひとつ別の図書館と統合され、再開発の進んでいた地区に新たな図書館として生まれ変わることになった。

新しくできた図書館は、それはそれは立派な建物だった。美術館か劇場かと見まがうような広く清潔なロビーに、充分なスペースをあけて配置されたOPAC。その隣に並ぶ見慣れない機械はセルフ貸出機だという。書架も一般的な図書分類以上に事細かに識別されており、検索した資料まで一直線に辿り着くことができた。2館の合併ということで蔵書も豊富だ。
新しくこの地域に引っ越してきた人であれば、感嘆すら覚えたかもしれない。

しかし、僕にはその施設がどうにも居心地悪く感じられた。それは、僕のなかに棲み着いた図書館という概念とは似ても似つかなかったからだ。
事前の検索を前提とした書架の動線は、かつてのようにあてもなく徘徊するには向いていなかった。誰とも会話することなく本の貸出が完了するというのも気味が悪かった。歩くたびに床板がさえずることもない。なにより、紙の匂いがしなかった。湿気と埃と手垢が混じり合ったようなあの古い紙の匂い。それがない図書館なんて、辛くないカレーのように思えた。

もちろん、辛くなくても旨いカレーが世の中に存在するということは、僕だって知っていた。それ以前からほかの図書館にも多く足を運んでいたし、それなりに馴染みもある。実際に便利だとも思う。わかっている、これは単なるノスタルジーでしかないのだ。きわめて老人的で視野狭窄な、みっともないノスタルジーだ。

それでも、ほかのどの図書館が真新しいシステマチックなものに変わろうとも、最寄りの図書館だけはいつまでノスタルジックな存在でいてほしかった。この10年ほどであまりにも景色が変わってしまったこの街にも、ひとつくらいは変わらないものがあったってよいではないか。

新しい図書館にも何度か通ったが、じきに足は遠のいた。図書館そのものに魅力を感じないと、どうしても返却にいくのが億劫になってしまうのだ。旅行は嫌いではないが、目的地へ行って帰ってくるためだけの移動はつまらない。それなら本は買えばいい。

先日、どうしても必要な絶版本があって、数年ぶりに図書館を利用した。

家のPCから予約し、メールが届いたら受け取りにいく。予約資料専用の書架に入り、識別番号の棚から目当ての本を取り出す。そのまま貸出機にバーコードをかざせば、あっというまに用事は終わりだ。たしかに、明確に目当ての本がある場合には、このうえなくスムーズなシステムだった。
しかし、やはり次に利用するのはまた数年後だろうと思う。

今、僕の枕元には何冊もの本が積まれている。栞が挟まった本だけでも10冊はあるだろうか。なかには1万円近くしたのに数ページしか読まないまま数年が経過したものもある。もしかしたら、死ぬまでにすべては読み切れないかもしれない。
おそらく僕は、もう読書家には戻れない。そして、それで構わないと思ってしまっている。