2019
04
22
カウントダウン

昭和生まれではあるが、自分が昭和の人間だという意識はさほど強くない。5歳の誕生日から1か月とおかずに平成改元を迎えている僕にとって、今日までの記憶の99%は平成期のものだからだ。

国鉄に乗った記憶はないし、バブルも知らないし、消費税はあたりまえに課税されるものだった。たとえるならば幼くして日本に戻ってきた帰国子女のようなもので、ステレオタイプな昭和的記号のほとんどは本から得た知識に過ぎなかった。親近感があるのはあきらかに平成の側だし、そもそも西暦のほうが遥かに馴染み深い。

僕にとって昭和とは、たびたび書類に記入する身近なものでありながらも、ガラス越しにしか触れたことのない存在といえた。

そんななか、ほぼ唯一といっていい昭和時代の鮮明な記憶がある。それは、昭和63年末から64年初頭にかけての約1週間のものだ。まさしく改元直前の時期にあたるが、なにも5歳児が時代の空気を敏感に感じ取っていたわけではない。父方の祖父が、昭和天皇とほぼ同時期に病床に臥していたのだ。

気を遣ってか、あるいは教えたところで理解できないと判断されたか、幼い僕には祖父がどのような病状にあるのかはまったく知らされなかった。それでも、いつもきまった時間に帰ってくるはずの自営業の父がやけに夜遅くまで戻ってこなかったり、深夜・早朝に幾度も電話のベルが鳴り響いたりと、親戚一同が非日常におかれているらしいことだけは5歳児にも理解できた。

なかでも最も象徴的なできごとが、年末から父の実家に泊まりにいったことだ。

年末年始を父の実家で過ごす、という現象だけを見れば、どこにでもある平凡な家族の風景に思えるかもしれない。しかし僕たちの住む家から祖父宅までは車で10分程度しか離れておらず、ふだんは遊びにいっても必ず日帰りだった。ほぼ毎週のように顔を出していたので、スペシャル感もない。
そんな場所にわざわざ泊まり込むということは、いよいよそのときが近いということにほかならなかった。

容態悪化の報を受けたのはアニメの『ドラえもん』を観ている最中だったから、おそらく大晦日の晩だったのだろう。あのころは、大晦日のテレビ朝日といえば『ドラえもん』の3時間スペシャルが定番だった。シンクロニシティというにもあまりに出来すぎた話だが、電話が鳴ったとき、ブラウン管にはのび太の身体から魂が抜け出してどこかへ飛び去っていくシーンが映し出されていたことを覚えている。

捏造された記憶かとも思ったものの、当時の放映データを確認してみると、たしかにその日の放送では「タマシイム・マシン」という秘密道具が登場していたようである。
タマシイム・マシンとは、魂のタイムマシンのこと。魂だけが過去の自分に乗り移ることで人生の一時期を追体験できる道具だ。ただしそのあいだ、現実世界の身体は呼吸も止まり仮死状態となってしまう。マネキンのようにぴくりとも動かなくなったのび太の抜け殻が、幼い僕にはやけに怖ろしく映ったものだ。

実はこの回のエピソードはトータルとしては非常にハートウォーミングなのだが、結局僕はその顛末を見届けることなく祖父宅へと向かった。祖父宅まではいつもは父の運転するワゴンでいくのに、その日は母と一緒にタクシーで向かった覚えがある。推察するに、そのころ父はすでに病院と実家とを往復する状況にあったのだろう。見慣れぬ角度から眺める車窓は、夜の闇をよけいに深く見せた。

5歳0か月の僕は、死という概念をどこまで理解していたのだろうか。

人並みに特撮ヒーローには親しんでいたので、まったく無縁だったということはなさそうだ。この時期に放映されていた特撮モノを調べてみると、超獣戦隊ライブマン、世界忍者戦ジライヤ、仮面ライダーBLACK RXといったタイトルが並んでいる。いずれも漠然とではあるがたしかに観ていた記憶があるし、ライブマンとRXについては容赦なく悪者を殺していたはずだ。

異形の悪者だけではない。時代劇と刑事ドラマが好きな父の隣で一緒に画面を眺めることも多かったから、善良な一般市民が理不尽に殺されるシーンも幾度となく目にしていた。胸を張って言うことでもないが、子供特有の無邪気さで小さな虫を踏み潰したことだって何度かはある。生きとし生けるものが最後には「死」という決定的なゴールを迎えることを、僕は幼いながらにある程度認識していたに違いない。

一方で、そこで語られる死は歴史上の人物と同じような種類の死だったようにも思える。自分とは無関係の、どこか遠い世界で起きている自然現象としての死。歴史の教科書を読みながら偉人たちの死にいちいち涙を流したりはしないように、終末や帰結ではあっても喪失や悲嘆を伴うものという意識はなかった。

そもそも僕は、祖父のことをほとんど覚えてすらいないのだ。いつも安楽椅子に座っていて、病院以外の場所に出歩くことのなかった祖父は、僕にとっては人間というよりマスコットキャラクターのような感覚に近かったのかもしれない。
「かわいがってもらった」という印象こそあるものの、具体的な思い出はなにひとつ語れないし、これこそ大人たちの言葉から後天的に捏造された記憶のような気もする。死を認識してはいても、理解まではしていなかったのだろうか。

巷間いわれるような当時の自粛ムードというものがどれほどのものだったのかは、僕にはわからない。ただ、祖父宅に泊まっている期間中、幼児が楽しめるような番組がまったく放送されていなかったことだけは記憶にある。

いとこたちを含め小学校低学年以下の子供が8人ほどいたので、大人たちはかわるがわる遊び相手をしてくれた。トランプやオセロやすごろくやその他諸々のボードゲームやカードゲームを、文字どおり朝から晩までプレイした。坊主めくりや花札を覚えたのはこのときのはずだ。ダイヤモンドゲームやらコピットゲームやらといったクラシカルなボードゲームに熱中したのは後にも先にもこのときだけだろう。

結局祖父が亡くなったのは、改元から3日目のことだった。
そこから数日間は通夜やら葬式やら人生はじめての体験が目白押しで、とにかく慌ただしかったという印象しかない。断片的な記憶はいくつかあれど、時系列がわからないし、そもそも思い違いだという可能性もある。とにかく、思い入れをもつ暇もないうちに昭和が終わり、感慨に耽る余裕もないうちに平成がはじまったのだった。

あれから30年が経過した今、僕たちは改元へのカウントダウンという奇妙な経験をしている。その日をどのような心地で、なにをしながら迎えるのか。今のところ僕にはなんの予定も計画もないが、それでも特別な日だとは思ってしまうあたり、やはり僕も昭和の子ということなのだろうか。